うたのみあらか

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長崎街道 筑前六宿の旅

長崎街道 筑前六宿の旅
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長崎街道 筑前六宿の旅 - 起請
長崎街道 歩道の埋め込み標
Photo by bkn / CC BY-SA

 豊前小倉と肥前長崎を結ぶ脇街道を「長崎街道」と呼ぶ。
 その街道に置かれた二十五宿のうちわがふるさと筑前国にあるものは、その数から「筑前六宿(ちくぜんむしゅく)」と称される。
 豊前国常盤橋(ときわばし)に始まる長崎街道が荒生田(あろうだ)の番所を越して筑前国に入り、 三国境を過ぎて肥前国に抜けるまでの宿場――すなわち、黒崎、木屋瀬、飯塚、内野、山家、原田の六つ。
 今回はこの六つの宿場の地の神、祖つらに手を奉るべく旅を綴りたい。

 

旅の概観

 筑前六宿と言うからに黒崎宿からはじめるのが筋だが、黒崎は長崎街道の一の宿でもあるし、どうせなら街道の起点である豊前国常盤橋から始めよう。
 長崎街道の旅は中途で終わるが、起点を入れておけばいつかまた肥前国から再開して、長崎街道全二十五宿踏破につながるかもしれない。

いざさらば 道触りの神に 誓ひなむ かちにすずろく 言つ霊
賜るならば 歌はなれ 叶はぬならば 歌はなるな

砂糖の道(シュガーロード)
 長崎の出島で荷揚げされた砂糖は長崎街道を通って大坂や江戸に運ばれた。
 おかげで街道沿いはよそとくらべて砂糖の入手が容易で、技法にも恵まれたことから、さまざまな菓子をうみだすこととなった。
 その歴史をふまえ、長崎街道は「砂糖の道(シュガーロード)」とも呼ばれている。

                 
起点 常盤橋豊前国 企救郡
常盤橋 2016年
Photo by bkn / CC BY-SA

 ときわばし。福岡県北九州市小倉北区。京町・船頭町と室町をわかつ紫川にかかる。平成の整備事業にて往にしの趣ある木橋に架け替えられた。
 豊前国小倉より肥前国長崎まで二十五宿五十七里(約228粁)を結ぶ長崎街道の起点。
 常盤橋は九州におけるお江戸日本橋のようなもので、長崎街道のみならず中津街道・秋月街道・唐津街道・門司往還の起点にもなっている。

伊能忠敬測量200年記念碑
 京町側の橋たもと。ただの記念碑ではなく、中央には北九州市1級基準点が設置され、公共測量の基準点として利用されていると云う。
 伊能忠敬が測量の旅を始めたのが55歳の時。ここ九州の測量は始めた時にはすでに64歳になっていた。
 前後二回の九州測量にて翁が始発点に置いたのがこの常盤橋だったと碑は伝えている。

伊能忠敬測量200年記念碑 2016年
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一の宿 黒崎宿筑前国 遠賀郡
黒崎宿 上市くまで通り
Photo by bkn / CC BY-SA

 くろさき。福岡県北九州市八幡西区。起点常盤橋より約11粁。
 慶長5年(1600年)、筑前国に入封した黒田長政は国境の備えとして六つの支城を造らせた。 ここ黒崎にはそのひとつ、井上之房(いのうえゆきふさ)の治める黒崎城があったが慶長20年(1615年)の一国一城令によって城は破却。
 江戸期早々に城はなくなったが、城のふもとは宿場として、またくきの海(洞海湾)に開く黒崎湊を抱える要衝として大いに賑わった。

舟町より黒崎城のあった城山を仰ぐ
Photo by bkn / CC BY-SA

曲里の松並木
 まがりのまつなみき。宿場出入り口の西構口(にしかまえぐち)より約300m。
 江戸期に幕府が街道筋に植樹させた松並木を市が整備し、史跡として遺している。
 並木道は600mほど続き、往時を偲びつつ歩くに楽しき風情である。

曲里の松並木
Photo by bkn / CC BY-SA
        
二の宿 木屋瀬宿筑前国 鞍手郡
木屋瀬宿 2016年
Photo by bkn / CC BY-SA

 こやのせ。福岡県北九州市八幡西区木屋瀬。前宿黒崎より約11粁。
 東構口から西構口まで約850m、宿場筋の趣をよく伝えていて、途中大きく道が曲がるあたりには市立の木屋瀬宿記念館や郷土史料館が設けられている。
 このあたりの古い家が道に対してやや斜めに建てられているのは「矢止め」と云って防衛を考慮した構えらしい。
 調べてみると佐賀県佐賀市静岡県森町にも同様の遺構があるようで、そちらでは単に「ノコギリ型家並」と呼ばれていた。
 「木屋瀬盆踊り」として今に伝わる通称「宿場踊り」は享保年間(1700年代前半)に伊勢参りに出たものが土産として持ち帰ったと云う。

木屋瀬宿の家並み 2016年
Photo by bkn / CC BY-SA

追分石と興玉神
 西構口を出ると復元された追分石があり、長崎街道は南進するが、西にたどれば唐津街道赤間に向かう。
 興味本位でそちらをすこしのぞくと、すぐに興玉(おきたま)神社があってその先は遠賀川で行き止まり。
 その昔、ここから赤間へ行く人は、興玉神社に無事を祈って川をわたったのだろう。
 木屋瀬宿はその遠賀川の水運でさかえたと云う。

興玉神社にて 築堤のむこうは遠賀川
Photo by bkn / CC BY-SA
        
三の宿 飯塚宿筑前国 穂波郡
東町商店街壁面画
Photo by STA3816 / CC BY-SA

 いいづか。福岡県飯塚市。前宿木屋瀬より約18粁。
 現在の本町商店街はかつての街道筋をそのままアーケード化したもので、 商店街の中ほどには旧宿場の街からをテーマにしたからくり時計が設置されている。
 往時より受け継いだ遺構はほとんど存在しないようだが、よすかをしめす石碑は多く立っている。

曩祖八幡宮
 「曩祖(のうそ)」とはご先祖さまのこと。神功皇后の逸話を由緒とするみやしろ。北九州には皇后にまつわる伝承が多くある。
 三韓征伐ののち、皇后はこの地にて神祇を祀り、これまで従ってきた九州の臣下との別れを惜しんだ。
 同じく別れを惜しむ臣下たちが「またいつか」と口々に申したことから「いつか」→「いいづか」の地名が生じたと云う。

曩祖八幡宮
Original Photo by Ginger1192 / CC BY-SA
        
四の宿 内野宿筑前国 穂波郡
内野宿 長崎屋(休憩施設)
Photo by STA3816 / CC BY-SA

 うちの。福岡県飯塚市内野。前宿飯塚より約14粁。
 行く方半里に長崎街道最大の難所、冷水峠(ひやみずとうげ)を控える。長崎方からすれば難所を越してほっと落ち着く宿場である。
 往にしを偲ぶにはよい鄙ぶりで、宿場のおもむきを多く遺している。旧構を示す標も多い。

内野の大銀杏
 内野宿の象徴とも云える大樹。かつては雌の大銀杏も近くにあり「夫婦銀杏」と呼ばれていたが、今はこの雄の木だけが残っている。

いちょう 落葉
Original Photo by Volfgang / CC BY-SA
        
五の宿 山家宿筑前国 御笠郡
山家宿郡屋跡
Photo by STA3816 / CC BY-SA

 やまえ。福岡県筑紫野市山家。前宿内野より約10粁。
 内野より息をきらして峠道、石畳を踏んで大根地(おおねち)神社の鳥居にいたるとそこから先は御笠郡。 山家宿にむけて道は下りとなる。
 この山家も宿場の雰囲気を多く遺しており、 石垣の上に瓦を葺いた土塀の様態を今の世に見せる西構口の遺構はとりわけめずらしいものだと云う。

追分
 かつて西構口から原田方面 300mほどのところに追分石が立っていて、その標には右が肥前長崎、 左が「肥後 久留米 柳川 松崎」へ進む道(日田街道薩摩街道)だと記されていた。
 つまりそこで道は大きく二手にわかれていたのだが、筑紫野市の資料によると幕末の元治元年(1864年)、 治安堅牢化のため二本の道は一本化されたようだ。
 1864年と云えば池田屋事件禁門の変、第一次長州征討の起こった年。
 福岡藩では尊王派の月形洗蔵が蟄居を解かれ、薩長の融和と長州征討の中止のため大いに才覚を尽くした年だった。 やがて藩論一転、佐幕派復権により洗蔵が斬首される乙丑の獄の、一年前でもある。

山家宿西構口並びに土塀
Photo by STA3816 / CC BY-SA
        
六の宿 原田宿筑前国 御笠郡
原田宿の道筋
Photo by STA3816 / CC BY-SA

 はるだ。福岡県筑紫野市原田。前宿山家より約5粁。
 街道筋の東側から国号「筑紫」の由来たる筑紫神社に立ち寄って参拝をすませ、 今度は正面参道を一の鳥居まで降りたらもう目の前に原田宿。
 道なりに歩いていくと、街道のおもむきはほのかにあって案内板も親切に用意されてはいるが、 住宅街化がすすんでしまっているため宿場の風情を偲ぶことは難しい。
 宿場筋を進んで西構口の先には筑前肥前筑後三国の国境が待つ。むかしは三国坂という急峻な峠だったと云うが、 明治に国道・鉄道建設のため切り崩され、これもまた往時を偲ぶことが難しくなってしまった。

筑紫神社 粥卜祭
 筑紫の国魂を祀る筑紫神社にて毎年3月15日に行われる祭事。種を仕んでおくのはひと月前の2月15日。
 炊いたお粥をひと月放置しておき、祭事の日にカビの生え具合で農耕や病災の吉凶を占うと云う。

筑紫神社
Photo by Saigen Jiro / CC0

はらふと餅
 見た目はいわゆる大福餅だが、なんとも頼もしい名を持つ原田宿名物。
 険しい山道だった国境の道、三国峠を登るための腹ごしらえとして人気を博した。
 今も地元の和菓子屋さんでむかしと変わらぬ「はらふと餅」の名で販売されていると云う。食みてしかも。

鳥の子 はらぺこ
Original Photo by Alpsdake / CC BY-SA
        
長崎街道 筑前六宿の旅 終わり
三国境より佐賀方面を望む
Photo by STA3816 / CC BY-SA
あさけふる 伊勢のさながた さるたなる ちふりかしこみ
とよひわけ わかつたもとの ときはばし はしるはしるに しらひわけ しらにわけいり
くろさきは さきだつ並木 こやのせは  臥やせる矢止め いひづかは つかへし真祖
うちのには うちしくしとね やまへには まへの追分 はるだには 春の粥うら
言くくり 御名をりたてて ながめたる かひこそあらね こえまほし 三国ざかひ
あなうたて こゆるもしらに みちたゆるとは
平成31年(2019年)4月15日